C.T.Laboのヘッダー画像

日本人という呼称の違和感

テーマ:[政治]
更新日: 2018年 7月 16日(月)
この記事は5分で読み終わります

はじめに

日本人が日本人の呼称を使うことを表現した鏡に薄く映るJapaneseの文字
© C.T.Labo

自分の民族のことを民族名で呼ぶ民族である日本人。

私たちは当たり前のように、私たちのことを主体性の低い日本人と呼称しますが、自分たちの民族のことをその民族名で呼ぶことに違和感のないのはなぜなのでしょうか?

目次

  1. 1. 自分たちの民族はこうあるべきだという宣言
  2. 2. 海外と比較して
  3. 3. 主体性を失う
  4. 4. まとめ

自分たちの民族はこうあるべきだという宣言

日本人は当たり前のように、日本人のことを日本人と呼びますが、これは世界的に見ても珍しいことです。

そもそも日本人と言えど、一人一人の価値観は違うのにも関わらず、私たち日本人は自分たちの民族のことをその民族名で呼びます。たとえば、「日本人はなぜ英語ができないのか?」など問題提起の際に当たり前に日本人という表現を使用します。

日本人でも英語が話せる人はいます。それでも、大多数の日本人を形容して、あえて「日本人」と一括りにするのはなぜでしょうか?そこには、「日本人ならこうあるべきだ」や「日本人はこういう人種だ」という宣言であり、それ以外の日本人は特殊な人間だと安易に自分たちの存在の可能性を縮めています。つまり、日本人である宣言とは日本人はこういうモラルに従って生きているというある種、宗教的な感覚に近いのです。

さらに、日本人はモラルに厳しく、モラルに反した人間に対してはいじめの対象になったり、私刑といって、芸能人を例に出すとわかりやすいのですが、芸能人が不倫したりするとネット上では、さも当たり前かのようにその芸能人に対して、殺人予告や住所を晒されたり、その住所宛に着払いでものを注文するというのを当たり前のように行います。

これだけ、自分たちの民族に対して他人に厳しいのは呼称に「日本人」を使っていることが一つの証明でしょう。

海外と比較して

日本人が日本人という呼称を使うことは、違和感の塊でしかありません。例えば、アメリカ生まれ・アメリカ育ちのアメリカ人と日本生まれ・日本育ちの日本人が同じ価値観あるいは同じ考えを持つことはないのでしょうか?

ないはずはありません。

全てが全てとは言いませんが、今ではインターネットが発達して、海外の価値を入れるのもようになってきました。そんなグローバルの時代にあえて日本人のことを日本人と呼称するのはあまりにも滑稽だと思います。

読者の方々がどれほど英語に精通しているかは知りませんが、例えば英語の文章を書くとき、「この英語の文章の中で」と表現するときにわざわざin the English sentenceと表現するでしょうか?恐らくは、in the sentenceで十分だと感じてしまうはずです。

他にも、アメリカ人の文章を見ていても、わざわざ主語をweやpeopleでいいところをAmericanと表現するでしょうか。確かに表現する機会はあると思いますが、それは昔のアメリカ人であったり、民族として歴史の中のアメリカ人ではそう揶揄することは多いですが、日本人が主語に日本人と使う頻度に比べればはるかに少ないと言えるでしょう。

主体性を失う

最近では、「なぜ日本人は議論ができないのか?」や「なぜ日本人には主体性がないのか?」などと問題提起されることも多くなってきました。グローバルの時代になり、日本人と他の国の人たちを比べて見て、議論する機会などが少ないと痛感させるようになりました。

その中で、答えとしては「議論させる空間がないから」や「上の人に従うのが文化だから」だとかあるいは、「教育の環境が受動的だから」などと言われることが多いですが、筆者から言わせればそれは違います。

問題提起の段階で「日本人」という呼称を使っていることそのものが議論できない理由であり、主体性がありません。なぜなら、そもそも日本の日本語を公用語としているのは日本語だけなのにも関わらず、日本語で書かれた文章の中で「日本人」とわざわざ客観性の高い呼称を使っているのが、「私たち」や「私」などの主体的な呼称を使うのに比べて明らかに文章の中に主体性がありません。

まとめ